フジ子・ヘミング
フジ子・ヘミング(1932年12月5日 - 、本名イングリッド・フジコ・フォン・ゲオルギー=ヘミング Ingrid Fuzjko Von Georgii-Hemming)は、日本で活躍するピアニストである。日本名は大月フジ(おおつきフジ)。 ロシア系スウェーデン人の画家・建築家のジョスタ・ジョルジ・ヘミング(Josta Georgii Hemming)と、日本人ピアニストの大月投網子の間にベルリンで生まれる。スウェーデン国籍(長らく無国籍の状態が続いた)。俳優大月ウルフは実弟。 小简介 ヘミングは菜食主義者、クリスチャンとして知られている。食物の中で特に好むのはじゃがいもであるとされる。 20歳からずっと愛煙家である。 ピアノ演奏以外の趣味は絵画、裁縫、読書、水泳などで、バレエや映画の鑑賞も好んでいる。絵に関しては幼少時から得意としており、今までに書き溜めた絵は本やCDのジャケットで使われている。個展を開くこともある。(2001.2.5~2001.2.24 「幻の素描展」より)また愛猫家、愛犬家の動物愛護家である。 大事件 幼少時代 5歳の時に日本に帰国。当時、戦争への道にひた走り軍事色が濃くなる日本に締め出されるかのようにほどなく父ジョスタは家族3人を残し、一人スウェーデンに帰国してしまう。以来、母と弟と共に東京で暮らし、母、投網子の手ほどきでピアノを始める。また、10歳から、父の友人であり、ドイツで母のピアノを師事したロシア生まれドイツ系ピアニスト、レオニード・クロイツァーに師事。以後、芸大在学時を含め、長年の間、クロイツアーの薫陶を受ける。 学生時代 青山学院緑岡尋常小学校(現・青山学院初等部)3年生の時にラジオに生出演し、天才少女と騒がれる。1945年、青山学院高等女学部(現・青山学院中等部)に入学。青山高女5年修了で、新制・青山学院高等部3年に進級。高等部在学中、17歳で、デビューコンサートを果たす。東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)在学中の1953年には新人音楽家の登竜門である、第22回NHK毎日コンクールに入賞をはたし、さらに文化放送音楽賞など、多数の賞を受賞した。東京音楽学校卒業後、本格的な音楽活動に入り、日本フィルなど多数のオーケストラと共演。かねてよりピアノ留学を望んでいたフジ子だったが、パスポート申請時に無国籍であった事が発覚する。 その後、留学の機会を伺いつつピアニストとして音楽活動を行っていたが、30歳の時に駐日ドイツ大使の助力により赤十字に認定された難民として国立ベルリン音楽大学へ留学を果たした。優秀な成績で卒業後、ヨーロッパに残り各地で音楽活動を行うも、生活面では母からの僅かな仕送りと奨学金で何とか凌いでいたという、大変貧しく苦しい状況が長らく続いた。人間関係においても、日本でも外国でもどこに居ても外国人として疎外された。フジ子は「この地球上に私の居場所はどこにもない...天国に行けば私の居場所はきっとある。」と自身に言い聞かせていたと話している。 ヨーロッパでのピアニスト時代 その間、ウィーンでは後見人でもあったパウル・バドゥラ=スコダに師事。作曲家・指揮者のブルーノ・マデルナに才能を認められ、彼のソリストとして契約した。しかしリサイタル直前に風邪をこじらせ(貧しさで、真冬の部屋に暖房をつけることができなかったためとしている)、聴力を失うというアクシデントに見舞われ、やっとの思いで掴んだ大きなチャンスを逃すという憂き目をみた。 既に16歳の頃、中耳炎の悪化により右耳の聴力を失っていたが、この時、左耳の聴力も失ってしまい、耳の病のためフジ子は演奏家としてのキャリアを一時中断しなければならなくなった。失意の中、ストックホルムに移住。耳の治療の傍ら、音楽学校の教師の資格を得、以後は、ピアノ教師をしながら、欧州各地でコンサート活動を続ける。現在、左耳は40%回復している。 日本への帰国後のブレイク 母の死後、1995年に日本に帰国し、母校東京芸大の旧奏楽堂などでコンサート活動を行う。 1999年2月11日にNHKのドキュメント番組、ETV特集『フジコ~あるピアニストの軌跡~』が放映されフジ子ブームが起こった。その後、発売されたデビューCD「奇蹟のカンパネラ」は、発売後三ヶ月で30万枚のセールスを記録し、日本のクラシック界では異例の大ヒットとなった。第14回日本ゴールドディスク大賞の「クラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤー」他各賞を受賞した。 やがて1999年10月15日の東京オペラシティ大ホールでの復活リサイタルを皮切りに本格的な音楽活動を再開し、国内外で活躍することとなる。2001年6月7日にはカーネギーホールでのリサイタルを披露。現在、ソロ活動に加え海外の有名オーケストラ、室内楽奏者との共演と活躍は続く。